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気付かないうちにサルフォード運河地区の再開発が有り得ないスピードで進んでる件。

この地区は産業革命期にリバプールへ綿織物を輸送するための運河街として栄えたが、戦後に一度衰退した。
4年前に僕が来たときはこの写真の中の建物なんて一つも無くて全部更地だったと思う。

久しぶりに行ったらイギリスメディアの第2拠点として一つの街を形成していた。(MediaCityUK)
BBCはスポーツ部門、リサーチ部門、そしてラジオ部門の一部等を既にロンドン本社から分離、グラナダTVは完全に拠点をここに集中させ、サルフォード大学のメディア系学部のキャンパスも移動、将来的にBBC OneChannel 4も拠点をここに移動させる可能性があるとのこと。 
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知っている限りでは、僕が籍を置いていた大学の学部には僕の他に2人の日本人がいた。
そのうちの一人がダンゴ姉さんである。彼女はスウェーデンで生まれ育った讃岐人だ。

6月のある日、僕が大学のテストが終わったらフランスにでも遊びに行こうかと思うとポツリとつぶやいたら、ならスウェーデンに来いと誘ってくれた。

断る理由は何もない。いそみ君も巻き込んで2人で旅立った。
僕がキプロスからマンチェスターに帰ってきて2日目のことである。



旅の前半で分かったことは、スウェーデン名物の世界一臭いニシンの缶詰は意外と食べられて、地元の釣り人に混ざってエーレスンド海峡で釣った鱈はどうやって料理してもうまいってことだ。



ダンゴ姉さんの家のある街からは車とフェリーで1時間もかからずに隣国デンマークに渡ることができる。電車を使えばコペンハーゲンにも1時間弱で行ける。
世界3大がっかりの一つである人魚姫の像も見に行ったが、あんまりがっかりしなくてもうがっかりだ。



実質滞在したのは4日半だが、20代前半の3人で全力でスウェーデンの夏を満喫した。

なにやらノルウェーの方がもっと綺麗なところだという話を聞いたので、北欧にもまたいつか戻ってこないといけない。

キプロス共和国いってきた。

今からちょうど1カ月前にホストシスターの結婚式の招待状を受け取り (click)、ダメ元でフランキーがキプロス滞在のビザを申請した。
待つこと2週間半、ホテルや航空券も予約して引くにも引けない状態だったが奇跡的に出発の前日に発行されたので晴れて二人で旅立った。

ウィンブルドン行ったりして結構呑気に待ってたけど。

 

僕たちはバカンスを兼ねてキプロスの南東部、アヤナパという街に1週間滞在した。
気温30度、適度に乾燥した空気で常にそよ風が吹いているというマンチェスターと対極にある恐ろしく快適な気候だ。

 

件の結婚式は、7月3日にアヤナパにある修道院でギリシャ正教会のしきたりに則って行われた。
この修道院は12世紀に建設されたもので、その起源は7、8世紀まで遡ることができる。
修道僧の宿舎や鐘楼は外にあるが本体の祭壇は洞窟の中にある。

 

ホストシスターは幼少時にこの修道院で洗礼を受けてキリスト教徒になった。

彼女の両親はキプロス人だが、彼女はイギリスで生まれているのでイギリス国籍だ。
彼女はイギリスでカレッジを卒業した後に単身でアメリカに移住して、現在の夫と出会うことになる。
そして彼女の夫はアメリカ国籍だが、彼女の夫の両親の母国語はスペイン語だ。
ちなみに彼女の兄もイギリス国籍だが、その兄は現在中国人と婚約している。

たぶんこの新郎新婦の子供は将来スワヒリ語を話すカナダ人とでも結婚するんじゃないかと僕は踏んでいる。
それでもたぶん結婚式はこの修道院でやるんだろう。

どうか末長くお幸せに。

ウィンブルドン行ってきた。

早朝6時過ぎに当日チケットを買うために向かったら、自分たちの前には3700人の先客たち。
あわよくばセンターコートのチケットを買いたかったが、そんな時間から最前列で優雅にお茶しながら並んでいるイギリス人たちを見てヴィーナス・ウィリアムズにしばかれたみたいな気分になった。



仕方なく20ポンドの入場券だけを買ってコートを周る。
運よく、2時間後に試合を控えたセリーナ・ウィリアムズが4番コートにウォームアップに現れた。



ヴィーナスとセリーナの父ちゃんだ。

イチゴに生クリーム(撹拌してないやつ)をかけたものを食べながらテニスを観るのがウィンブルドンの風物詩とのことなので従ったけれど、案の定ピンク色に輝いている地雷を率先して踏みに行く形となった。
盛大に爆発した。

でも今大会日程で一番の天気にも恵まれて、日本勢やトップ選手たちの試合も見れたので4時間並んだ甲斐があったと思います。

宝物が増えた。
1983年にマンチェスターで結成されて80年代後半から90年代初頭に起こったマッドチェスター・ムーヴメントの引き金となり、90年代中後期に起きたブリットポップ・ムーヴメントの先駆けともなったバンド、ストーン・ローゼズのLP。
全て88年、89年にプレスされたオリジナル盤を手に入れた。

 

ファーストアルバムのアートワークは、アメリカ人画家ジャクソン・ポロックの影響を受けたギタリストのジョン・スクワイアによって、フランスの五月革命をテーマに描かれて”Bye Bye Badman”というタイトルが付された。

五月革命中に反体制派のフランス人学生達が機動隊の使うCSガスの効果を和らげる目的で目の下にレモン汁を塗っていた、というイアン・ブラウンが聞きつけた話を元に絵の上には輪切りのレモンが置かれた。
 
 

 
バンドは後に絵と同名の曲を発表(click)、レモンはそれ以降バンドのトレードマークとなった。
個人的にはかなり気に入っている曲だが、この曲はファーストアルバムに入っているのみでライヴで披露されたことはなかった。
 
 

音作りにおいて重要な役割を果たしていたドラマーのレニが1995年に脱退することによってバンドは事実上崩壊へと向かう。
 ローゼズ独特のグルーヴを作り出していたレニの脱退はバンドに方向転換を強いた。

翌年4月にギタリストのジョン・スクワイアが脱退。
方向性を見失ったバンドは96年8月のレディングフェスで最悪のパフォーマンスを披露しメディアやファンに酷評される。
フェスの直後にマニが脱退。
同年10月についにフロントマンのイアン・ブラウンが解散を発表。

 

 
解散後、ボーカリストのイアン・ブラウンはソロ活動を始め、今も現役で歌っている。
その致命的に不安定な声は当時のままだが、作る音楽はローゼズとかけ離れている。

ギタリストのジョン・スクワイアはThe Seahorsesというバンドを組んだり、自らマイクをとりソロ活動をしたりしていたが、一部ファンからは「歌の歌えないシンガーソングライター」と評され、現在は音楽活動を一切止めてアート作品の制作に注力している。

ドラマーのレニはThe Rubというバンドを一時期組んでいたが、商業ベースに乗せるつもりはなかったらしく、現在では基本的に表舞台から姿を消している。

ベーシストのマニはベースを担いだままボビー・ギレスピー率いるPrimal Screamに加入、元メンバーの中で唯一マッドチェスターの残党として現役で活躍している。


(via http://www.slicingupeyeballs.com/)

"I HAVE NO DESIRE WHATSOEVER TO DESECRATE THE GRAVE OF
SEMINAL MANCHESTER POP GROUP THE STONE ROSES 18.3.09"

現在でも再結成を望む声が聞かれるが、そのことにうんざりしたジョンは、鉄屑に「墓を荒らすつもりはない」と書き殴りそれをそのまま作品として発表、ローゼズが死んだことを強調した。

 
(via http://www.last.fm)
 
2011年3月にはマニの母親が逝去し、その葬儀の場でイアンとジョンが解散後15年ぶりに顔を合わせたことから、タブロイド紙が一方的に再結成の可能性について書き立てたが、BBCとのインタビューでマニは "...Please fuck off and leave it alone. It isn't true and isn't happening." と再結成の噂を否定した上でプライベートなイベントにまで押し掛けたメディアたちにFu*k offするよう丁寧に要求した。


初めてローゼズの曲を聴いたときは、正直言ってなんて退屈な音楽なんだろうと思ったけれど、1年半くらい何となく聴いてリズム隊の魅力に気付いたらいつの間にか気に入っていた。
個人的に再結成はそれほど望まないけれど、このバンドが作った曲はこの先も聴き続けると思う。

せっかく手に入れたアナログ盤を聴くためにも、この夏は実家にある父親のレコードプレーヤーの復活に全力を注ぎたいと思います。

2年くらい前に開設して数カ月以降更新の滞っていたもうひとつのサイトですが、なんだかまたやりたくなったので場所を移動してまた一から細々と更新していきます。よかったら暇な時にでも見てください。
 
更新状況はこのブログの左にあるアーカイブのところに表示します。写真のストックが溜まってきたので最初のうちは頻繁に更新すると思います。
またいつの間にか更新されなくなったら、やっぱりあいつに2つのブログを管理することなんて無茶だったんだと心の中で思ってください。
 

2007年6月に渡英してから1年以上住んでた家。
何の因果か、初めてイギリスに来たその日からキプロス人の家族のところに居候していた。

同年9月のある日の早朝、僕が朝ごはんを食べていた時にけたたましくドアをノックして家に入ってきたのがインドネシアからの刺客、フランキーである。
家の居心地も良かったし、彼とは気が合ったので僕たちは2008年の8月までこの家にとどまった。

その後も一緒にフラットを借りて住んだり(click)、彼が見つけてきた、給料の代わりに光熱費と家賃がタダになるバイト(click)をしたりして、結局今まで約4年間一緒に住んでいる。



そんなわけで、色々と思い出深い家なので引っ越した後も毎年二人で母の日やクリスマスにあの家を訪ねて行っている。
つい昨日もまた、久しぶりにディナーを一緒に食べようということになったので行ってきた。
そこで渡されたのがこれ。

英語とギリシャ語で書かれたホストシスターの結婚式への招待状だった。
2011年7月3日、会場の教会はキプロス共和国のリゾート地、アヤナパにある。

今から一カ月。
もし万が一、フランキーのビザがそれまでに発行されたら直ぐに航空券を手配しようと思います。

ここ数日、雨がやんだ後の空が恐ろしいくらい綺麗。


     
 
世も末か、と悟りつつ部屋に籠りながら日々弱っていっている。
テストシーズンに入りました。


イギリス連邦王国女王・エリザベス2世の孫にあたるウィリアム王子と、王族の配偶者としては約350年ぶりの非貴族階級で、一般中流階級出身のケイト・ミドルトン嬢の結婚式の様子がマンチェスターでもパブリック・ビューイングという形で披露された。



スキャンダル、経費問題等で長らく不要論も囁かれるが、イギリス国民の間でロイヤルファミリーの人気は依然として高い。

カンタベリー大主教によって執り行われた婚礼の儀式をもって、ウィリアム王子はケンブリッジ公爵 (Duke of Cambridge) の称号を贈られ、ケイト・ミドルトン嬢はケンブリッジ公爵夫人(The Duchess of Cambridge) として王室に迎え入れられた。
 

イギリス生活4年余りで私が行き着いた極上の朝食である。

シリアルから始まってパン → ヨーグルト → フルーツ → マフィン → ハリボー → パスタ → ハム&チーズサンド → ハム&スピナッチパニーニと悩みながら歩を進めてきた朝食をめぐる旅はようやくここに落ち着いた。

ワイルド・ロケット、イタリアンサラミ、ストロングチェダーチーズをマヨネーズと胡椒と共にセサミベーグルにのせてレベル6のグリルの中に入れて待つこと3分。


やっぱり朝は白いご飯が食べたい。
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