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7月31日から8月7日までの1週間、フランシスコの家に泊まりつつ、ウィーン観光とドロミテ山塊にトレッキングに行ってました。
今までの中でも最高の旅でした。
それ故に長いです。

まず今回の旅の発端は出発日の3週間前に遡る。イギリスとイタリア、メールでのやりとりが続いた。

今回、旅のスケジュール作成は全面的にフランシスコがこなした。まず行き先の候補に上がったのは、

 ・フランス・パリ、ニース他
 ・スペイン・バルセロナ他
 ・チュニジア (交通費、ホテル込みの良いオファーがある。)
 ・マケドニア共和国 (友達がいる)
 ・オーストリア・ウィーン (クリムトが見たい)
 ・日本

日本。
突然そう言い出したんだから仕方がない。僕は3年連続で夏に日本に帰る予定はなかったので目から鱗のアイデアだった。
確かに2人で日本中を周ったら楽しい気はするけれど。

結局コストと日程の関係からすんなりとウィーンに決定した。そのすぐ後に僕がイタリアへの航空券を手配、全8日間の行程ということで落ち着く。
ちなみに各自オーストリアへたどり着いて、ウィーンのオペラ座の前で落ち合うっていう案もあったけれど、僕がベネチアへ飛んで電車で往復した方が安かったのでボツになった。
航空券手配から数日後、フランシスコが8日間のスケジュールの暫定案を送ってきた。その要約がこれだ。

  1日目 9:30amベネチア・マルコポーロ空港着。フランシスコが出迎え、そのままベネチア付近のビーチへ。終日過ごす。
  2日目 午前をゆっくり過ごし、4:37pm発の特急でオーストリア・ウィーンへ。11:30pm着。
  3日目 ウィーン滞在。
  4日目 ウィーン滞在。
  5日目 ウィーン滞在。8:40pm発の寝台列車でイタリアへ戻る。
  6日目 7:15am着。実家で昼食を済ませ午後からドロミテ山塊登頂開始。日没までに中腹の山小屋到着。
  7日目 さらに上を目指し、別ルートで夕方までに下山。夜はフランシスコが通うクライミング・ジムのパーティに参加。
  8日目 10:10am ベネチア・マルコポーロ空港発、マンチェスターへ。

なかなかハードなスケジュールだ。
本人もきっとそう思ったんだろう、この直前のメールに
"if we do not do these at our age, when are we gonna do em?" (意訳:若い時に無茶しなきゃいつするんだ?)
と書いてあった。

よし、心は固まった。これでいこう。
でも懸念はある。どう考えても5~7日目がきつい。3日間観光した挙句でもどうせ寝台列車では安眠は望めないし、イタリアに戻った当日から2日間本格的なトレッキングに出かける。
さらに僕は先天的に股関節の角度が一般的な角度より広く、それを支える筋肉に負担がかかるという妙な脚を持っている。筋肉に負担がかかり過ぎると動く時に痛みを伴うのだ。軽度だけど。
ちなみに高校時代、水泳部にいたときに右腓腹筋損傷というのも経験している。
最近の運動不足も加担して、いきなり登山なんかしたら身が滅びると瞬時に悟った僕は出発5日前からランニングと水泳とストレッチを久し振りに再開した。超付け焼刃。

ここからようやく旅の始まりだ。


2009年7月31日。



毎回安い航空券を取ると深夜に現地に着いて空港内で夜を明かすのが黄金パターンだけど、今回は違って午前6:10分マンチェスター発。
逆算すると午前3時に家を出なくちゃならない。最安値の航空券はいつも非人間的な時間帯を突いてくる。
寝れないじゃないか。

小ネタ。
僕はかなりの確率で空港での手荷物検査の際に金属探知ゲートをピーピー言わす。今回も鳴った。たいてい原因はベルトのバックルなんだけど、今回の場合はきっとポケットの中の出し忘れたライターだ。
警報機が鳴ると黒人のおっさんがやってきて個別のボディチェックをされた。ところがおっさんはあっさりライターを見逃した。
ついでに、その直前に係員のおばちゃんは僕が朝飯用にセインズベリーで買っておいたジャンボ・チョコレート・スイス・ロールを没収した。パイプ爆弾だとでも思ったんだろうか。
ライターを見逃すおっさんと、ロールケーキを取り上げるおばちゃん。
そういえば英国内務省は2009年7月9日付けで国内におけるテロの警戒レベルを4から3に引き下げていた。
イギリスの将来は心配だ。
朝食は空港内のバーガーキングが開いていたので事なきを得ました。

午前6時10分、無事ベネチアへ向けて飛び立つ。前回のような3時間ディレイにはならなかった。(click)

前日フランシスコからメールが届き、初日ビーチへは行けないと伝えられた。フランシスコのお母さんが実家で転倒、右腕を骨折してしまったからだ。
代わりに僕は空港からバスと電車を乗り継いでフランシスコの実家の最寄駅、コネリアーノまで来るように言われた。今思えばこれがこの旅で数々起こった予定変更の第一回目だ。



サン・マルティーノ村にある実家に着いたとたんにズッキー二のピザが出てきた。フランシスコが生地から作ってくれた。
文句なしにおいしい。

少し仮眠をとらせてもらった後、ビーチへ行く代わりにフランシスコの地元の後輩たちのイベントへ行くことになった。なんでだ。


イタリアのナイナイ。
コントおもろかった。何言ってるか分かんなかったけど。

イベントの後のパーティで何人かと話をしたけれど、イタリアの高校生の間では日本はやっぱりアニメ大国だという共通認識で間違いないようです。
デスノートについて聞かれても全く答えられなかった。

あと、フランシスコの後輩の子が同級生の女の子を何人か紹介してくれたけど、その時毎回「これ俺のガールフレンドの○○」みたいに言うから女の子みんなに中指立てられていた。
あのテンションがイタリア人だ。

2009年8月1日



翌朝、クライミング用のハーネスを使ってトレーニングをするフランシスコ。軍人か、お前は。

午後、フランシスコの運転でコネリアーノ駅へ向かう。

小ネタ。
駅へ行くまでに通った道は整備されていて車通りが少なく、見渡しがきく大小様々なカーブがランダムに続いていて、さらにシケインのようにラウンドアバウトが点在していた。日本の国道みたいに年がら年中工事をしてないし、無駄に信号も多くない。きっとイタリアの片田舎はどこもこうなんだろう。
そうだとしたら、エアロダイナミクスに基づいてデザインされた赤いシャシーに600馬力もあるエンジンを積みたいイタリア人の気持ちが分かった気がした。
普段フランシスコは一般道で100km/h以上出すらしい。お父さんもだいたい80km/hくらい出していた。



午後4時40分、コネリアーノ駅に長距離列車とは思えないような電車が入ってきた。僕はヨーロッパの主要都市間を結ぶ特急列車、インターシティを予約したと聞いていた。
一応フランシスコが車掌らしき人に行き先を確かめたがどうやら間違いないようだ。



しかし、僕たちが降り立ったのはこんなところ。ヴィットリオという街らしい。
切符を切りに来た乗員に列車が違うといわれた。しかしフランシスコが確かめた際には車掌さんらしき人は笑顔で答えていた。
あんなに朗らかに誤情報を吹き込まれたらなす術もない。

コネリアーノへ戻ろうにも次の電車は1時間以上先だった。しかたがないので喋って時間をつぶす。



小ネタ。フランシスコのメガネがなんだかおもしろい。ネジを一本も使ってないから宇宙でも使えるんだぜ、って言っていた。

1時間後、コネリアーノへ戻ってウィーン行きの列車を探した。この旅2回目の予定変更だ。
結局、予約してあった行きのチケットは半額の25ユーロが返金されて、僕たちは69ユーロで午後10時発の寝台列車のチケットを買った。



3時間くらいコネリアーノ駅で時間をつぶさなければいけない。駅前の丘の上には城が建っていていい景色だけど3分で飽きてしまった。

午後10時10分、ベネチアとウィーンを12時間で結ぶ寝台列車を無事つかまえた。



各コンパートメントにベッドが4つ。 先にいたブラジル人の弁護士の人とシェアすることに。弁護士ときいて一瞬疑ったけどIDにそう書いてあったから本物なんだろう。なんだか仲良くなった。これでブラジルに行っても安心だ。



フランシスコは身に起こったことを書き留めておく習慣があるらしい。去年一緒に行ったクロアチア(一人で行ったと書いてましたが途中から現地で合流してました)のことも書いてあるといっていた。
いつか時間がある時に長編にまとめ上げるんだそうだ。


2009年8月2日 ウィーン1日目。



あむす………てってん。朝一で見た駅名に一瞬焦った。オランダまで来たかと思った。



午前9時30分、予定より30分遅れてウィーン西駅到着。

まずはホステルを見つけて休憩だ。本来は深夜に南駅に到着する予定だったのでホステルはその近くにとった。西駅からだと結構遠い。



これはウィーンの公共交通機関の路線図。
路面電車 (Sバーン)と地下鉄 (Uバーン) が一緒に書かれているが厄介なことにUバーンの停車駅が書いてない。さらにどうやら黒丸がUバーンと重なるところに常にUバーンの駅があるわけではないらしい。
それでもWestbahnhof (西駅) → Landstrasse → Sudbahnhof (南駅) となんとか移動した。

ホステルへ行き、一休みして午後からウィーンの街へ繰り出した。
ちなみに来る際に列車を乗り逃したとホステルのオーナーらしき人に伝えたら前夜の分の宿泊料をチャラにしてくれた。ありがたい。

最初に僕たちが向かったのはゼツェッション館という古典主義から脱却したウィーン分離派の芸術家のための展示館。
なぜいきなりそんな所なのか。フランシスコの好きなクリムトの有名な作品があるからだ。


建物上部に乗っかってるのは月桂樹の透かし細工のドーム。壁にも一部月桂樹の装飾があるのが見えるだろうか?
フランシスコが、家を建てたときには是非あの装飾を壁に入れたいと2回も言ってました。



前衛的な作品が並んでましたが僕には理解しがたいです。



アート?



続いてこちらはバロック建築の傑作と謳われるカールス教会。16世紀、ペストが大流行し多数の死者が出た際に建立された。2本の柱に彫ってあるレリーフは聖人がペストを鎮める様子だそうです。



ベルヴェデーレ宮殿。
16世紀に貴族の離宮として建てられたが、現在は美術館になっている。クリムトの代表作『接吻』やエゴン・シーレの自画像、誰もが見たことあるであろうジャック=ルイ・ダヴィッドの『アルプス越えのナポレオン』などを収蔵。どこかで見かけた絵がたくさんあって面白かったです。



たまに見かける自転車と歩行者のための信号がかわいい。


2009年8月2日 ウィーン2日目。


朝食はウィーン名物のザッハトルテと呼ばれるケーキ。
男2人で朝からケーキ食べてるって傍から見たら相当おもろい光景だよなと言いながら食べてた。



今日はホステルから真っ直ぐ北上、最初に見たのは国立歌劇場。世界最高と称されるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地だ。



歌劇場の前を通って西に抜けると見えるのはホーフブルク宮殿。王家として栄えた650年間、ハプスブルク家の居城だった。
現在一部はオーストリア大統領公邸として使われている。



何かと思ったら国会議事堂でした。



若干北上すると、右手にブルク劇場。
これまた由緒ある劇場で、ベートーヴェンの「交響曲第1番」、モーツァルトの「フィガロの結婚」が初演された。
落成は1888年、内部装飾はクリムトが受け持った。



……ヴォティーフ教会。


2本の尖塔に心奪われて、後で全景を撮ってないことに気付いた。



街の中心部へ 戻ろうかと歩いていたらフランシスコが左下に見えるのと同じレオポルド・ミュージアムのポスターを発見、行ってみることに。
ここにはクリムトや、これまたフランシスコの好きなエゴン・シーレ他の膨大なコレクションが展示されている。

いつも興味のわかない作品を飛ばしてわりと速足で周るのが僕たちの鑑賞法だけど、このミュージアムはお互いの興味がまったく違う作品に向いて1周するのに数時間かかってしまった。 個人的にはレオポルド・ハウアーの様なわかりやすい絵が好きです。シーレの作品は数点を除いてあんまり好きになれなかったです。


2009年8月3日 ウィーン滞在3日目 (最終日)

朝起きたらあいにくの雨。3日目にもなるとそろそろ疲れてきたので少し遅めに活動開始。
とりあえず部屋を空けないといけないので荷物を持って、帰りの列車が出るウィーン西駅へ。ロッカーにぶち込んでから町へ繰り出した。



最初に向かったのはシュテファン大聖堂。
近すぎて全景が取れなかったので屋根のどアップをどうぞ。
この聖堂は街の中心部に位置し、周辺の旧市街地ごと世界遺産に登録されている。また地下には15世紀に流行したペストによるおよそ2000人の死者の白骨を山積みにしたカタコンベが設けられている。



ウィーンの地下鉄の駅がどこもかっこいい。



最後に僕たちが向かったのはウィーン美術史美術館 (写真は2日目のもの)。
なんでか。有名な絵は勿論、そこにはきっと椅子があるからだ。
ウィーン観光の山場とも言われるシェーンブルン宮殿にはいかなかった。雨降ってたし、疲れすぎてもう歩きたくなかったから。またいつか行けばいいし。

……行っときゃよかったなぁ…。



ここには主にハプスブルク家の美術コレクションが収蔵されている。コレクションもすごいが建物自体に驚いた。



正面の大階段を登って行ったらなんとカノヴァの作品があった。2年前にポッサーニョで同じものを見た気がする。 (click )
一時的に借りてきたんだろうか。



はたと気がついた。僕はポッサーニョの美術館であの作品のポストカードを買ったんだった。
でもご覧の通り若干違う。ポッサーニョの方は右手に持っている鈍器が欠けている。この像は2体あったんだろうか。それとも復元してウィーンにもってこられたのだろうか。
誰か詳しい人教えてください。

この後ギリシャ・ローマ時代の絵画に造詣が深いフランシスコが有名な絵を掻い摘んで色々と教えてくれた。
でも30分くらいたった後、ブリューゲルやジョルジョーネやラファエロの絵を前に休むことぐらいの贅沢はない、みたいなことを言い出してソファに座り込んでしまった。
結局僕はその先一人で周った。部屋数も多くて脚がパンパンだ。

疲れ果てた僕たちは発車時刻の2時間も前に駅に着いて、ピザを買って座り込んだ。今度は電車を間違えるわけにはいかない。



あぁ、よかったちゃんと行き先が書いてある。
列車は定刻に発車した。明日からはいよいよトレッキングだ。

行けるんだろうか?


つづく。
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